山下清さんとはどんな人だったのか。
本の解説の中で結構突っ込んだ記述がありましたので、 それをご紹介したいと思います。



山下清 2-1


山下清という精薄児のたましいは、夜の野面石のように排他的である。
 


他人はもちろん、肉親への愛も生きるための偽装にすぎず、
非情の石は、いつも不愛想に、生きるための保証として仕事をしていただけだった。私どもは感度のおそいフィルムが現代の風物をじんわり感光するのを待つしかなかったのだ。あるいは既に感光しているものもあったろう、彼はそのフィルムを決して自分から公開しなかった。



私どもと清のあいだには、かりそめのつきあいしかなかったのだろうか
 
すべて、『みんなの心に生きた 山下清』 内に掲載 
式場俊三氏の手記 「清 残影」 より
 

山下清 2-2
 

山下清は、小学校三・四年で、知能が他の子供よりも遅れていることが、はっきりしだした。知能指数は六十八位だったという。
 そのために、周囲から侮辱や嘲笑をうけ劣等感に苦しめられ反抗的になった。
 ……小学校五年に通学していた山下清は、いつも低能とさげすまれ、いじめられた。
そのため、山下清は、精いっぱいの抵抗をしたが、たび重なる反抗によって、ついに方面委員の努力で、昭和九年五月十二日、千葉県市川市にある知恵遅れの施設「八幡学園」に移ることになった。
 
解説より
 

山下清 2-3


…清の終生変わらなかった「悲惨」への回帰を想う。
清は学童生活によってはじめて自分の孤独を思い知らされた。それまでは母や肉親のカバーによって小さな世界で安住していたわけだが、学童たちに容赦はなかった。
彼はここで「辛さ」にたえねばならぬ事を覚えた。
「悲しさ」は情緒という時間が洗い流してくれるだろうが「辛さ」に対抗するには怒りしかない。
多勢に無勢、憤りを発することのできない清は、非情の沈黙のなかに逃げこむしかなかった。
喜びも悲しみもない空白の世界である。
彼に哀楽の表現のないのは致し方ないことだった。
山下清の世界は「辛さ」を代償にしてかちえたものだった。……  
 

「清 残影」 より


山下清 2-4
 
 
御飯を食べる時 旦那さんから
「山下は人より劣ってるので此処で山下より下は無いので山下は一番下司だから皆が食べ終わったころ食べて山下は御飯でもおかずでもおつけでもこうこでも一番ふるいのを食べろ 新しいのは上の人が食べるから何でも一番古いもんから食べろ」
と云われてしまいました
(中略)
 僕は「人の食べ残しは誰だって気持ち悪がって食べない」と
云ったら「山下は普通の人間と違って人並より劣ってるんだから食べ残しで沢山だ」と云われました

昭和一七年    二十歳
 

(放浪日記)より


山下清 2-5




 安井曾太郎と洋画界二大巨匠とされた梅原龍三郎両氏は、山下清の作品について次のように語っている。
「社会人としての面を問題にせず、作品だけからいうとその美の烈しさ、純粋さはゴッホやアンリー・ルッソーの水準に達していると思う」
 

解説より


 
山下清 2-6



私はあらためて、清のかたくなに閉ざされた脳裏から、これだけの記憶をはがしとった八幡学園の指導者たちの異常なほどの愛情に驚嘆する。
(中略)
 貼絵と放浪日記、これを学園側の精薄児に対する愛情の所産などといってみたところで、なっとくがいかない。清と学園の指導者との間には、もっと深いつながり、たとえば一対一の
人間性の勝負といったはげしいものがあったのではなかろうか。
 

「清 残影」 より


 
山下清 2-7







ともだち(貼絵)昭和十三年・十六歳
ともだち(貼絵)



菊(貼絵) 昭和十五年・十八歳
菊(貼絵)



浅草の仲見世
浅草の仲見世(ペン画)




東京の焼けたとこ(貼絵)
東京の焼けたとこ(貼絵)