大正四年、北海道苫前村で起こった三毛別羆事件。
思う事といえば、、、

明らかに意図をもって人を襲い、最終的には六線沢の開拓集落の家々を荒らし回るのですが、野生動物がそこまで大胆不敵になれるものなのか、と思うのであります。
小説『羆風』には、袈裟懸け羆という野生動物の本能的心情ともいうべき描写が度々出て来ますが、
『怖いものである筈の人間も、悲鳴をあげた場合は鹿や狐よりもたわいのない獲物だった。』
『戦闘と殺戮の前に、陽炎のように燃え上がるはずの殺気はどこにも見られなかった。彼らは鹿や野兎のように怯えきっていた。』
『袈裟懸けにはもう人間なんて軽蔑すべき屑に思えた。
畏敬していた人間どもが背を見せて走るのだ。背を敵に見せることも屈辱だった。
袈裟懸けの人間に対する軽蔑はますます大きなものになり、同時に心に余裕が生じた。もう恐怖は去っていた。どれから殺るか——そんな愉しみすらが湧いた。』
(いずれも戸川幸夫著『羆風』より)
(いずれも戸川幸夫著『羆風』より)
描写の通り、人間を「餌」以下の軽蔑する存在だと認識しているとしか思えない。
ヒトの「弱さ」を見抜くと、こうも野生動物は大胆に人間のテリトリーに侵入してくるものなのかと、、、この後に再び起こった悲劇を見ると、現実に起こった事であるにも関わらず、信じられない気持ちになるのであります。
大正四年 十二月十日午後八時四十分頃
通夜の亡霊
信じがたいというのは——

この十二月十日の夜、再び太田家が袈裟懸け羆の襲撃を受けていることです。

この十二月十日の夜、再び太田家が袈裟懸け羆の襲撃を受けていることです。
マユさんの遺体も発見され、その日の夜は死んだマユさん、幹雄さんを弔うため、太田家では簡素ながらも通夜を行うことになりました。


↑ 講談社漫画文庫『野性伝説 羆風』中巻 p112 より
参列したのは、隣村から駆けつけた幹雄さんの実の両親や、近隣の住民を合わせ九名。
しめやかに執り行われていた通夜の最中、午後八時四十分頃——

そのとき、ドドーンという物音とともに遺体を安置した寝間の壁が打ち破られ、黒い大きな塊が立ちはだかった。
(『羆風』より)

↑ 最近、DVDでアニメ「ガンバの冒険」を観ている影響で、イタチのノロイ風に描いてしまった袈裟懸け
居合わせた誰もが、無惨な死を遂げた二人の亡霊が出た、と直感した。
(同上)

なんと袈裟懸け羆が、自らの『食料』であるマユさん、幹雄さんの遺体を取り戻そうと再び太田家を襲ったのでありました。
突然の巨大羆の襲撃に太田家は大混乱。

幸い、参列者のひとり中川長一さんが外に逃げ出て石油缶を鳴らし続け、屋内にいた堀口清作さんが銃を威嚇発砲したため羆は誰も襲わずただちに外へと逃げ去ったのでありますが、、、

しかし、この日の午前中に袈裟懸けは捜索隊と遭遇し、隊に参加していたマタギの谷喜八さんに、当たりはしなかったものの銃撃も受けていたというのに、

街中のネコやスズメも人が近寄れば逃げる。野生動物というのは得体の知れないニンゲンは警戒して接触を極力避けようとするのが普通。。。かと思うのですが、しかし。
その日のうちにまた人間の家に襲いに来るとは、、、
俺は人間を喰えるのだ。その力がある——それが領主として、袈裟懸けの満足であった。
(『羆風』より)
自然と共に、昔から自らの力の中で三毛別の領主として生きて来た羆 袈裟懸け。
しかし、その袈裟懸けは同じく自然に追い詰められ、自然の道から外れた暴君へとその力を変えていったのでしょうか。。。

太田家が袈裟懸け羆に襲われている頃、川下へ300メートルほど離れた中川孫一宅前では、羆討伐のための救援隊が五十名ほど集合していました。
そこへ川上の太田家より異様な騒ぎ声が聞こえてくる。

これは異常事態だと救援隊は太田家へ出発。

200メートルほど離れた明景家の人たちは大きな不安の中でそれを見守るのでした。
明景家の場所は地理的に比較的安全と考えられていたらしく、そこには明景一家の
妻ヤヨさん、長男力蔵さん、次男勇次郎さん、三男金蔵さん、四男梅吉さん、長女ヒサノさん、(主人の明景安太郎さんは急用のため隣村へ外出中)
の6名。
さらに、避難のために斉藤石五郎さん一家の
妻タケさん、三男 巌さん、四男春義さん、(主人の石五郎さんは、救援要請のため苫前村へ外出中)
の3名。
特にタケさんは出産間近の身重の体で、これでは女性と幼い子供ばかりでは危険だと、用心のために太田家に寄宿していた通称 “オド” 長松要吉さんも加わり計10名が明景家にいました。
特にタケさんは出産間近の身重の体で、これでは女性と幼い子供ばかりでは危険だと、用心のために太田家に寄宿していた通称 “オド” 長松要吉さんも加わり計10名が明景家にいました。

↑ 『野性伝説 羆風』中巻 p185 より
その頃、太田家では救援隊が駆けつけ、被害者はいない事が判明し、皆が安堵していたその時、
陽動作戦といった高級な戦法を羆がとれるかどうかについては疑問である。
袈裟懸け羆に人間を欺く意思があったのかは分かりませんが、救援隊を嘲笑うがごとく、既に袈裟懸けは太田家より明景家の方向へと進んでいたのでした。。。

十二月十日午後八時五十分頃
修羅場と化した明景家
そして8時50分頃、明景ヤヨさんが救援隊の夜食であるカボチャ煮を大鍋で作っている最中——。
戸のところでドシンと体をぶっつける音がしたので梅吉を負ぶって仕事をしていたヤヨは隣の部屋から大きな声で、
「誰だね?宮本さんかね?嚇かすもんじゃないよ」
と声をかけながら南瓜の鍋をかかえて皆のいる部屋に入ってきた。
(『羆風』より)次の瞬間——

激しい物音と地響きをたて、巨大な黒い塊が家の中になだれ込んできたのである。
(『慟哭の谷』より)
↑ 『野性伝説 羆風』中巻 裏表紙より
黒い塊とは「袈裟懸け」。
明々と火が灯る家の様子に、獲物である人間がいると判断したのか、最初に襲ったマユさんと同じ女性のニオイを嗅ぎ取ったのか、袈裟懸け羆は明景家に襲い掛かったのでありました。

まず、袈裟懸けは窓から侵入し、明景ヤヨさんは土間に逃げようとしたものの、恐怖にかられた次男の勇次郎さんが腰に抱きつき、ヤヨさんは転倒。

ここで袈裟懸けに襲われ、背中に負ぶっていた四男の梅吉さんの足や腰、ヤヨさんの頭部に噛み付き、二人は重傷を負ったそうです(梅吉さんはこの時の傷が原因で二年八か月後に死亡)。

”オド“長松さんはこの隙に玄関から外へ逃げようとしたのですが、それに気付いた袈裟懸けは即座に襲う対象をヤヨさんから長松さんに変更。
袈裟懸けはヤヨさん親子から離れ、逃げようとする長松さんに襲い掛かったそうです。

熊はオドの腰の辺りに激しく咬みかかり、尻から右股の肉をえぐりとり、右手に爪傷を負わせた。
「うわあ!!」
体が引き裂ける痛みにオドは絶叫した。
(『慟哭の谷』より)この間にヤヨさん親子は家屋から脱出。
ヤヨさんは重傷を負いながらも、勇次郎さんと共に九死に一生を得たのでありました。

↑ 『野性伝説 羆風』中巻 p216 より
一方、袈裟懸けは長松さんの絶叫に驚いたのか長松さんから離れ、居間で恐怖におののいていた明景金蔵さん、斉藤巌さん、春義さん兄弟へと攻撃の矛先を変えたのでした。

ここで熊は明景金蔵を一撃の下に叩き殺し、怯える斉藤巌、春義兄弟を襲った。巌は瀕死の傷を負い、春義はその場で叩き殺された。
(『慟哭の谷』より)
この事件での犠牲者は女性と幼い子供ばかり。。。
そして、最大の悲劇とも言えるのは。。。
居間で襲われたのは明景金蔵さん、斉藤巌さん、斉藤春義さんの3人。
この他に斉藤タケさん、明景力蔵さんの2人は家の隅にある野菜置場に身を隠して一時的にも難を逃れていました。

しかし、斉藤タケさんには実の息子である巌さん、春義さんが羆に殺害されて行く様子を物陰で黙って見過ごす事など出来る訳がなかったのではないでしょうか。。。
思わずムシロから顔を出してしまい、

↑ 『野性伝説 羆風』中巻 p222 より
そこを袈裟懸けは目ざとく見つけタケさんを居間に引きずり込んだそうです。。。

↑ 『野性伝説 羆風』中巻 p223 より
そして、臨月で間もなく出産を控えていたタケさんもまた袈裟懸けの犠牲に。。。
「腹やぶらんでくれえ……。はら破らんでくれえ……。
咽喉を喰ってくれえ……。のど喰って殺せえ……」
(『羆風』より)自分の腹を守ろうと、タケさんの絶叫が明景家に響き渡ったそうです。
熊はタケの腹を引き裂き、うごめく胎児を土間に掻きだして、やにわに彼女を上半身から食いだした。
(『慟哭の谷』より)衝撃的なこの場面は、漫画『野性伝説 羆風』でも描写されています。
迫力のシーンですので、出来れば直に皆さまの手にとって見て頂きたいので、その場面を引用して紹介するのは控えますが、私にとってこの場面は、、、
『主は与え、主は奪う』
なんて言葉も旧約聖書には有りますが、、、
そういった意味合いを想起する、そういうシーンであります。
十二月十日午後九時五十分頃
魔の一時間
この時、救援隊は異変を察知し太田家より急行、明景家を包囲していました。


↑ 『野性伝説 羆風』中巻 p234・235 より
しかし、明景家から漏れてくる音は、、、

↑ 『野性伝説 羆風』中巻 p240 より
バリバリ、コリコリ……
あたかも、猫が鼠を食う時のような、名状しがたい不気味な音がする。
(『慟哭の谷』より)人の骨を砕く音、さらに被害者の呻き声、泣き声、叫び声も。。。

↑ 『野性伝説 羆風』下巻 p14・15 より
しかし、羆は屋内のどこにいるか分からず、むやみに家屋に向かって銃を発砲すれば生存者に当たる可能性もあり全く手出しが出来ず、そのまま一時間ほどの時間が経過してしまいました。

まさに『魔の一時間』。。。
やがて、『熊が屋内をまさぐる鈍い音だけが聞こえるようになった』(「慟哭の谷」)タイミングで、銃を威嚇発砲し袈裟懸けを家から追い出す事には成功。


↑ 『野性伝説 羆風』下巻 p37 より
絶好の撃ち取るチャンスだったのですが、なんと間近の射手の銃が不発。
そのまま袈裟懸けは『家を背にしながら悠然とした足どりで暗闇に消え』(「慟哭の谷」)、他の射手も家に向かって発砲するのは躊躇せざるを得ず、またも捕り逃してしまったのでした。


救援隊が救助のために明景家に踏み込んだ時には、家の中は惨憺たる状態でした。

部屋の中は一面が血の海、荒らされて足の踏み場もなく、血しぶきは天井裏まで飛び散り、死臭が充満していた。まさにこの世のものとは思えぬ地獄絵である。
(『慟哭の谷』より)
被害者の斉藤タケさん(34)の体は右半身部を中心に、

↑ 『野性伝説 羆風』下巻 p44 より
部屋の中は一面が血の海、荒らされて足の踏み場もなく、血しぶきは天井裏まで飛び散り、死臭が充満していた。まさにこの世のものとは思えぬ地獄絵である。
(『慟哭の谷』より)
被害者の斉藤タケさん(34)の体は右半身部を中心に、
見る影もないまでに食い尽くされていた。胎児はかすかに母体とつながり、奇跡的に無傷だったが一時間後に生き絶えた。
(『慟哭の谷』より)
斉藤春義さん(3)、明景金蔵さん(3)も身体の多くの部分を食害され死亡していました。
タケさん、春義さん、金蔵さん共に並んで、獲物を隠すように荒ムシロや布団で覆われていたそうです。
斉藤巌さん(6)は、救援隊に発見された時は意識があったのですが、臀部を骨が露出するまでの傷を負い、『おっかあ!熊獲ってけれ!』『水!水!』(「慟哭の谷」)といううわ言を叫びながら、約二十分後に亡くなりました。
しかし、雑穀俵の陰に隠れていた明景力蔵さん(10)と、就寝のために布団の中にいた明景ヒサノさん(6)の二人は奇跡的に羆には見つけられず、命拾いする事が出来たのでした。

↑ 『野性伝説 羆風』下巻 p48 より
この、生存者の証言によって明景家での惨劇の様子が記録に残される事になったのであります。
三毛別事件での人的被害は以上で、成人女性二名、子供四名の計六名が死亡。
重傷者は三名、このうち明景梅吉さんは羆による咬創の後遺症によって二年八か月後に死亡。
この梅吉さんと斉藤タケさんの胎児も死亡者に含めれば計八名の尊い命が犠牲になりました。

ここまで事件の経緯を見ていると、本当に大自然は私たちに恵みを与え、そして奪うのだという事を痛感すると言いますか。。。

野生動物によって、女性や子供ばかりが犠牲になるというこの悲劇を見るにつけ、その意味は何なのかと考えてしまいます。



関連本 色々読む ⑤-1 怒りの嵐 につづく!

ここまで事件の経緯を見ていると、本当に大自然は私たちに恵みを与え、そして奪うのだという事を痛感すると言いますか。。。

野生動物によって、女性や子供ばかりが犠牲になるというこの悲劇を見るにつけ、その意味は何なのかと考えてしまいます。

それが心の奥に宿る、根源的な共感を呼び起こすからこそ、事件の起こった大正時代より百年も経った今もまた、三毛別事件は語り継がれているのではないか。。。という気がします。

ここでの展開も、色々考えさせられるものがあります。
キーマンとなるのが、実際に袈裟懸け羆を撃ち取った『サバサキの兄』との異名を持つ山本兵吉さん。
『羆嵐』は銀四郎の存在を中心に物語は進んで行き、人の心の奥に宿る弱さと悲しみに大きくクローズアップする内容になっている、、、と思います。
”勝者のいない哀しい戦争“ とも言えるような、この事件の虚しさを思うのであります。
吉村昭著 小説『羆嵐』では「山岡銀四郎」の名で登場します。
『羆嵐』は銀四郎の存在を中心に物語は進んで行き、人の心の奥に宿る弱さと悲しみに大きくクローズアップする内容になっている、、、と思います。
”勝者のいない哀しい戦争“ とも言えるような、この事件の虚しさを思うのであります。

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