『愛』の物語がサイバーパンクか?『銃夢』なのか?という疑問も無きにしも非ずだったのですが…しかし。
サイバーパンク(Cyberpunk):人体や意識を機械的ないし生物工学的に拡張し、それらのギミックが普遍化した世界・社会において個人や集団がより大規模な構造(ネットワーク)に接続ないし取り込まれた状況(または取り込まれてゆく過程)などの描写を主題のひとつの軸とした。
Wikipediaより
この映画のサイバーでパンクな要素があるとすれば………
それはやっぱり、人間をCGというギミックで表現するという発想がサイバーパンク的…じゃないでしょうか。
そういえば主人公だけがCGの映画って珍しいような…
アニメのキャラと実写の俳優が同じシーンで演技をする映画の元祖はディズニー映画の「メリーポピンズ」ではないかと思いますが、
もし主人公のメリーだけがアニメだったら…
DVD「メリー・ポピンズ」より
それをやってしまおうというのはある意味パンク。
周りは全部人間の俳優が出てくる中、主人公のデザインのバランスを取るのは難しいのではないかと思いますが、映画本編でのアリータの存在は意外と違和感がなかった。
むしろアリータの一挙手一投足は非常に魅力的に見えました。
これはやっぱりジェームス・キャメロンの「父の愛」を土台としての制作陣の原作愛、ガリィ愛に下支えされたものだからこそ、なのかも。
特に示唆的だと思ったのは、物語中盤でアリータの体がバーサーカーボディに換装される所。
そこからティーンエイジャー風だったアリータが大人の女性としてのイメージに変わってくる。
↑こういう表情は原作のガリィみたい!
こういう事が出来るのもCGならではの演出なんでしょうけども、ボディの変化、環境の変化がアリータ自身の成長に結び付くというのは原作にはない思想で…
原作『銃夢』でのガリィは、恋人はとっかえひっかえ変わる、ストーリー上の目的もコロコロ変わる、立ち位置は紆余曲折とも言えるような変遷をたどるのですが…
『銃夢』全体のストーリー展開
ガリィの最初の敵、マカクの屈折した感情との戦いを描いたマカク編、ガリィの最初の恋人との悲しい恋を描いたユーゴ編、悲恋の傷を癒すためモーターボールのプレイヤーになってしまうモーターボール編、物語当初からガリィへの敵愾心を持つライバルとして登場していたザパンが、最大の敵となってガリィの前に現れるザパン編、ザレムのエージェントとなり、遂にガリィの過去やザレムの正体にたどり着くTUNED編で終わる。
個人的にはザパン編が一番好き。マカク編ユーゴ編モーターボール編ザパン編TUNED編
しかし不変なのはガリィ自身。
作品内では初回から最終回まで十年以上の時間が経過しており、最初に赤ん坊で出てきたキャラが十歳の少女になって登場したり、ストーリーからフェードアウトするキャラも居たりするのですが、ガリィだけは歳も取らず変わらぬまま。
ガリィの存在は超然とした本質に迫ろうとする作品のテーマそのもの、と私には見えました。
それに対し映画版のアリータは変化し続ける。
これもまた人間の要件という本質に迫ろうとする表現のようです。
「人間の思考は脳だけでなく、体中の神経や臓器から影響を受けているという。脳以外の体のパーツを入れ替えても生きながらえるほど、人間は単純な生き物ではない。生命の定義について、哲学的な問いかけができる作品になったと思う」
(『怖さ封印、父の視線で 「アリータ:バトル・エンジェル」に出演、クリストフ・バルツ』朝日新聞 2019年3月1日夕刊)より イド役の俳優クリストフ・バルツ氏のコメント。
こうして見ると映画版は全く違うアプローチながら、ガリィ=アリータであって、そこに収斂していく作品ではないかと思います。
やっぱり『銃夢』の魅力はガリィの存在なんですよね…
そういうキャラクター重視なところが他の作品、連載当時ブームとなっていた大友克洋さんの『AKIRA』や士郎正宗さんの『攻殻機動隊』とは違うと思う所で。
攻殻機動隊にしてもAKIRAにしても、作品全体を貫く大きな世界観そのものがテーマと繋がっていて…、そういうテーマが先行する作品は、登場するキャラクター達は表現のためのピースに過ぎなかったりするもので。
『攻殻機動隊』の草薙素子も物語途中からいなくなるし、他にもファンタジー+ロボットアニメというユニークな世界観ながら、最終回で主人公をはじめとする登場人物のほとんどが死ぬ『聖戦士ダンバイン』などもその例かと。
攻殻機動隊 (1) KCデラックス [コミック]
士郎 正宗
講談社
1991-10-05
聖戦士ダンバイン 1 [DVD]
バンダイビジュアル
2006-08-25
その意味で、『銃夢』がちょっと変わっていると思うのは、ガリィという主人公の存在そのものが作品の世界観やテーマを体現している点。
物語の最初にイドがガリィを掲げて笑うシーン。
『銃夢』の世界を象徴しているような、どこか倒錯した雰囲気漂うこの光景。
『銃夢』とは、ガリィとイドの、業を乗り越えようとする夢の物語にも思えます、私には。
映画版には無い描写ですが、原作では節目節目でたびたび夢のシーンが出てくる。
それは「業」という人間の宿命でもあり…
『銃夢』とはガリィの夢、倒錯した世界の中でひとつひとつ業を乗り越え、目覚めに向かって歩みを進めるガリィへの共感が、この作品への評価のカギのひとつとなっているように思います。
このガリィへの感情移入が作品を楽しむポイントという意味では、映画版の表現は正しいのかなぁ…と思いました。
つまり、
萌え~
!
映画版のラストは物語のもっとも重要なキーパーソンであるディスティ・ノヴァが、黒幕感満々に登場して終わる。
長い原作ゆえ、映画版の物語は完結していない訳で。続編が作られるのかはまだ未定のようですが…
しかし、何としてもこの夢の続きを見たい、アリータが自分の翼で飛翔する姿を見たいと思うのであります。
終わり
引用している画像はすべて『アリータ:バトルエンジェル』公式ホームページ、予告編映像、講談社刊『銃夢』より
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